徳川将軍

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    徳川秀忠
    徳川秀忠(とくがわ ひでただ、天正7年4月7日(1579年5月2日〈ユリウス暦〉) - 寛永9年1月24日(1632年3月4日〈ユリウス暦〉・1632年3月14日〈グレゴリオ暦〉)は、安土桃山時代から江戸時代の武将、江戸幕府第二代将軍。
     
    生涯
    出生から後継者争い
    徳川家康の三男として、遠江・浜松に生まれ、乳母・大姥局によって養育される。
    母は側室の西郷局、実家の西郷氏は、九州の菊池氏一族で、室町初期には守護代をつとめたこともある三河の有力な国人であった。
    同母弟に家康の四男松平忠吉がいる。
    長兄・信康は秀忠の生まれた年に死亡、庶兄の秀康は豊臣秀吉の養子に出されて、後に結城氏を継いだので、母親が三河の名家である秀忠が実質的な世子として処遇されて14歳で中納言に任官し、江戸中納言と呼ばれる。
    この際、羽柴姓を贈られた。
    天正18年(1590年)、豊臣秀吉の養女で織田信雄の娘・小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封された事により破談となる。
    文禄4年(1595年)には信長の姪で同じく秀吉の養女江(父は浅井長政、母は織田信長の妹・市)と再婚。
    慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられ、9月10日に美濃の赤坂宿に到着する予定(福島家文書に「中納言、さだめて十日時分には其地まで参るべし」)だったが、信濃国上田城攻めで、真田昌幸の激しい抵抗に時間を奪われて9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原の戦いには参加できなかった[1]。
    近年の研究では、このことで軍事面に於いてその無能振りを全国に示した秀忠及び自分の死後の徳川家の将来を悲観した家康が、もともとは秀吉の遺言に従い、徳川・豊臣両家共存の意向だったのを取り止めて、後顧の憂いを絶つべく豊臣家廃絶の道を選んだのではないかとする考えが示されている。
    そのように軍事面での才能には疑問が持たれる秀忠だが、それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の君主に相応しいと考えていたからだと言われている[要出典](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、当然その中の「守成は創業より難し」という一文も読んでいたと思われる)。
    律儀に父の路線を守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言えるだろう。
    ただ、秀忠自身は武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、大坂冬の陣では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。


    征夷大将軍

    征夷大将軍
    慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、慶長10年(1605年)にわずか2年で秀忠に将軍職を譲った。
    秀忠が将軍職に就任するための上洛時、関東・東北・甲信の諸大名をあわせ10万人規模の軍を率いた。
    秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。
    大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)の戦で、豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。
    結局、豊臣家は滅亡し、豊臣秀頼に嫁がせていた娘の千姫は助け出された。
    その後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。
    なお将軍襲職の際、源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある(岡野友彦『源氏と日本国王』)。
    『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってなったのだというのである。
    これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。
    元和2年(1616年)に家康が死去したのちは、将軍親政を開始し酒井忠世、土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。
    大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、3人の弟を尾張・紀伊・水戸に配置し、自身の子忠長に駿河・遠江・甲斐を与えた。
    一方で、弟の松平忠輝・娘婿の松平忠直や家康の謀臣・本多正純を改易・配流にしている。
    また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子を後水尾天皇に入内させた。
    また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸・長崎に限定させている。
     
    隠居
    元和9年(1623年)に将軍職を嫡男家光に譲る。
    父家康に倣って、引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。
    当初、駿府に引退した家康に倣い、自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。
    晩年の寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示した。
    寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)年初めに亡くなった。
    家光に対して『徳川実紀』では、「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」との遺言を残している。
    徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重、徳川綱吉(第5代将軍)は孫。
    徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。
    徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。
      

    官歴
    官歴
    ※日付=旧暦
    1587年(天正15年)8月8日、豊臣秀忠として、従五位下に叙し、侍従に任官。
    蔵人頭を兼帯。
    1588年(天正16年)1月5日、正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任。
    侍従如元。
    蔵人頭を去る。
    1590年(天正18年)1月5日、元服。
    12月29日、従四位下に昇叙し、侍従如元。
    1591年(天正19年)、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。
    11月8日、豊臣秀忠として参議に補任し、右近衛権中将を兼帯。
    1592年(文禄元年)5月9日、豊臣秀忠として従三位に昇叙し、権中納言に転任。
    1594年(文禄3年)2月13日、権中納言を辞任。
    1601年(慶長6年)3月28日、豊臣秀忠として権大納言に転任。
    1602年(慶長7年)1月8日、従二位に昇叙。
    権大納言如元。
    1603年(慶長8年)4月16日、右近衛大将を兼任。
    1605年(慶長10年)4月16日、源秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。
    右近衛大将兼任如元。
    5月1日、征夷大将軍宣下。
    1606年(慶長11年)、内大臣と右近衛大将を辞任。
    1614年(慶長19年)3月9日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。
    1623年(元和9年)7月27日、右大臣を辞任。
    1626年(寛永3年)8月19日、太政大臣に転任。
    1632年(寛永9年)1月24日、薨去。
    2月10日、贈正一位。
    ※豊臣秀忠としての宣旨表記に関しては、下村效『日本中世の法と経済」1998年3月 続群書類従完成会発行の論考による。
     
    墓所・遺骸について
    法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。
    墓所は、東京都港区の一角にあった台徳院霊廟であったが戦災で焼失し、1958年に台徳院霊廟が増上寺本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も荼毘に付されて改葬された。
    尚、この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、座した姿勢のままその衣服等とともに縦に圧縮され、畳んだ提灯の如くつぶれていた。
    圧縮により変形が激しく、また骨が著しく分解され軟化していたため、詳細な調査は不可能であった。
    毛髪等の調査の結果、秀忠の血液型はO型であった。
    この調査については、鈴木尚の『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』、『増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体』を参照のこと。
       

    人物
    人物
    関ヶ原の戦いが初陣であった。
    この時の秀忠隊は信濃の外様大名と、上杉・中山道に対処する部隊としての慣例により隣接地に封地を持つ譜代大名で構成していた[2]。
    しかし、上田城の対処で家臣団の意見の対立を招き、足並みを乱れさせた。
    最終的に秀忠は康政・忠隣の攻撃の意見を入れたが、秀忠を譜代が支えるという事はできなかった。
    家康は秀忠が間に合わないと察するや、本多忠勝と井伊直政になお秀忠を待つか、開戦すべきかを協議した。
    忠勝は前者を主張し、直政は後者を主張した。
    家康は直政の意見を容れたため、この時点で秀忠は関ヶ原への遅参が確定した。
    秀忠は関ヶ原の戦いのとき、3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した。
    このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。
    このため家康は関ヶ原の後、秀忠としばらくの間は面会すら許さず、面会したときには手ひどく叱責を加えたとまで言われている。
    慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。
    24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が伏見城に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。
    このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。
    このときのことを、『当代記』では、次のように記している。
    「廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参」(供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)。
    これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。
    当代記では11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。
    ところが秀忠は家康の命令を無視して11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。
    このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『駿府記』には記されている。
    大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。
    家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。
    結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が勤めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王口で先陣を勤めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。

    出会い系
    徳川秀忠の人物を、『徳川実紀』では次のように評価している。
    「東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。
    岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。
    御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。
    独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。
    何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。
    萬ず御旨に露違はせ給はで。
    いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき」 このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。
    事実、信康は武勇に優れ、秀康も豊臣秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。
    それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しい。
    ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している。
    しかし、当の徳川氏による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。
    ただし、大坂の陣の後のことであるが、弟義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり、周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」と素早く対応を指示して混乱と被害を抑えている。
    武将としての評価が低いとはいっても、統率力と状況観察力の点では及第点レベルであったと思われる。
    公家諸法度、武家諸法度などの法を整備、定着させ、徳川幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を、高く評価する意見もある。
    秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。
    海音寺潮五郎は、「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」と評している。
    秀忠は恐妻家であり、正室のお江の方には頭が上がらなかったとされている。
    気性の荒い妻の影響で側室を持つことが許されなかったという俗説が一般的だが、秀忠はお江の方を愛し敬い、彼女もそれだけの魅力のある女性ではあったようだ。
    一度だけ江戸城の女中だった静に手を出した際も、正室からの追求を恐れて、静を正式の側室にはしなかった。
    生まれた子供(保科正之)にも一切面会せず、そのまま保科家に養子に出し、江の存命中は正之を実子として認知することもなかった。
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