徳川家宣

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    徳川家宣

    徳川家宣
    徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は江戸幕府第6代将軍である(在職:宝永6年5月1日(1709年6月8日) - 正徳2年10月14日(1712年11月12日))。
    甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。
    正室は近衛基熙の娘・天英院熙子。
    子に徳川家継ほか。
    第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。
    幼名は虎松。
    初名は綱豊(つなとよ)。
    近年の研究では、甲府時代は松平を名乗っていた(宗家、御三家の当主、世嗣以外は徳川を名乗れなかった)。
    石高は25万石。
     
    生涯
    寛文2年4月25日(1662年6月11日)、徳川綱重の長男として江戸根津邸にて生まれる。
    父が正室を娶る直前の19歳の時に身分の低い26歳の女中に生ませた子であったため、世間をはばかって家臣の新見正信に預けられ、養子として新見左近を名乗った。
    生母は寛永4年(1664年)に死去している。
    9歳のとき、他の男子に恵まれなかった綱重の世嗣として呼び戻され、元服して伯父である4代将軍・徳川家綱の偏諱を受けて「綱豊」と名乗り、延宝6年(1678年)の父の死後、17歳で家督を継承し祖母・順性院に育てられた。
    延宝8年(1680年)、家綱が重態となった際には、家綱に男子がなかったことから綱重の弟に当たる上野館林藩主・徳川綱吉とともに第5代将軍の有力候補であったが、堀田正俊が家光に血が近い綱吉を強力に将軍に推したため、綱豊の将軍就任はならなかった。
    綱吉にも世嗣がいなかったが、綱吉娘婿の徳川綱教も後継候補だったため、綱教の死後、将軍世嗣として「家宣」と改名して江戸城西の丸に入ったのは宝永元年12月5日(1704年12月31日)、家宣が43歳の時だった。
    宝永6年(1709年)、綱吉が亡くなり、48歳で第6代将軍に就任すると、悪評の高かった生類憐れみの令や酒税を廃止するなど気概を示したため、庶民からの人気と期待は高かった。
    柳沢吉保を免職し、間部詮房・新井白石を登用して文治政治を推進し、荻原重秀に命じて財政改革を試みたが、在職3年後の正徳2年10月14日(1712年11月12日)に死去。
    享年51。
    後を子の徳川家継が継いだ。
    家宣と次代将軍・徳川家継の治世を、併せて正徳の治(正徳の政治)という。
    法名:文昭院殿順蓮社清譽廓然大居士。
    墓所:東京都港区の三縁山広度院増上寺。


    人物・逸話

    人物・逸話
    心優しい人物だったといわれている。
    父・綱重に世子として呼び戻された際、家宣付の家臣として新見正信、太田正成、島田時之らを付された。
    新見は家宣の育ての父であり、さらに養父であったことから家宣の信任が厚く、それを嫉妬した太田・島田らが幕府に対して「左近は早世しており、新見が自らの子を左近として擁立した」と讒訴した。
    これが事実無根と知れると、両名は幕府から切腹を命じられたが、家宣は「一時とはいえ、自分のために仕えてくれた家臣を助けてほしい」と助命を嘆願し、流罪に減刑された。
    綱吉の実子・徳松が早世すると、水戸藩主・徳川光圀から強く次期将軍に推挙されたといわれる。
    綱吉との関係は良好なものではなかったとされる。
    無類の学問好きで、新井白石から初代将軍・家康、曽祖父の2代将軍・秀忠、祖父の3代将軍・家光の事跡など、歴史について熱心に学んだといわれる。
    また慶長5年(1600年)から延宝8年(1680年)に至る80年間の諸大名家の家系図と略伝を10ヶ月でまとめさせ、『藩翰譜』と題して常に手元に置いたという。
    綱吉から養子として迎えられて江戸城西の丸に入ったとき、また下心を持つ諸大名や旗本が賄賂に近い祝い品を持ってきたとき、家宣はこれらを全く受け取らなかったといわれる。
    後に将軍になると、人事を一新して、不正を厳しく取り締まったといわれる。
    将軍になると、新井のほかに室鳩巣ら多くの学者を招聘し、人材の登用に尽力したといわれる。
    人気のなかった「生類憐みの令」を廃止するなどして、幕政改革に熱心だったことから、歴代将軍の中でも名君と評されていて、在位3年で死去したのを惜しむ声が多い。
    『徳川実紀』では、「仁慈の心あり」と評されている。
    5代将軍・綱吉は「生類憐みの令」を厳守することを遺言したが、家宣は葬儀の2日前に綱吉の柩の前で、側用人の柳沢吉保に対し次のように言ったという。
    「生類憐みの禁令に触れ、罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために、あえて遺命に背くこととする」。
    この時、罪を許された者は八千数百人にも上ったという。
    家宣が死の床についたとき、側用人の間部詮房を通じ、新井に将軍継嗣について家宣は以下のように相談したという。
    鍋松(家継)は幼く、古来幼主の時に世が平穏であったためしが少ない。
    また、天下の事は私すべきものではない。
    東照宮(家康)が御三家を立てられたのはこのような時のためであるから、自分の後は尾張殿に譲り、鍋松が成人した折には尾張殿の心に任せた方が良いか、あるいは鍋松が成人するまで尾張殿には西丸にいて政治を執ってもらい、不幸にして鍋松が死んだ場合に尾張殿に将軍家を継いでもらった方が良いか、この2案のうちどちらが良いか。
    これに対して、白石は2案とも反対し、鍋松を継嗣として譜代の者がこれを補佐することを進言したので、家宣もその案を受け入れ、間もなく息を引き取った。
      

    官歴
    官歴
    寛文10年7月9日(1670年8月24日)、松平虎松を称する。
    それ以前は、新見左近と称する。
    延宝4年12月12日(1677年1月15日)、従三位に叙し、左近衛権中将に任官。
    左近衛将監を兼任。
    同日元服。
    伯父である将軍・家綱の1字を賜り、綱豊と名乗る。
    延宝6年10月25日(1678年12月8日)、甲斐国府中城主襲封
    延宝8年8月18日(1680年9月10日)、参議に補任。
    9月6日(10月28日)、正三位に昇叙。
    参議如元。
    元禄3年12月15日(1691年1月13日)、権中納言に転任。
    宝永元年12月5日(1704年12月31日)、将軍後継者となる。
    宝永2年3月5日(1705年3月29日)、従二位に昇叙し、権大納言に転任。
    家宣と名を改める。
    宝永6年5月1日(1709年6月8日)、正二位に昇叙し、内大臣に転任。
    右近衛大将を兼任。
    併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
    正徳2年10月14日(1712年1月15日)、薨去。
    11月3日(12月1日)、贈正一位太政大臣。
    ※近衛府の次官たる中将と同府の判官たる将監を兼任するのは珍しい様相である。
       

    徳川家継
    徳川家継
    徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:正徳3年(1713年)−正徳6年(1716年)。
     
    家系
    第6代将軍・徳川家宣の4男。
    母は側室で浅草唯念寺住職の娘・月光院(お喜代)。
    一時期、徳川家のかつての苗字、世良田を称する。
    別名は世良田鍋松。
    婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。
    徳川15代の中で最年少で将軍になった人物である。
     
    生涯
    将軍になるまで
    宝永6年(1709年)7月3日、第6代将軍・徳川家宣の四男として生まれる。
    家宣は子宝に恵まれず、正室・近衛熙子との間に生まれた豊姫は天和元年(1681年)に早世し、宝永4年(1707年)に側室・おこうの方との間に生まれた家千代も2ヶ月で早世し、宝永5年(1708年)に生まれた大五郎も宝永7年(1710年)8月に早世した。
    正徳元年(1711年)にお須免の方との間に生まれた虎吉も早世し、家継だけが生き残った。
    正徳2年(1712年)、父・家宣が病に倒れたが、このときの9月23日に家宣は新井白石と間部詮房を呼び寄せて、「次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。家継の処遇は吉通に任せよ」というものと、「家継を将軍にして、吉通を家継の世子として政務を代行せよ」と遺言したと『折りたく柴の記』には記されている。
    そして家宣が死去した。
    すると白石は、「吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやって来る家臣と幕臣との間で争いが起こり、諸大名を巻き込んでの天下騒乱になりかねぬ。鍋松君を将軍として我らが後見すれば、少なくとも争いが起こることはない」として、家宣の遺言を無視する形で、白石は家継の擁立を推進した。
    これに対して、幕閣の間では「鍋松君は幼少であり、もし継嗣無く亡くなられたらどうするおつもりか」という反対意見もあったが、白石は「そのときは、それこそ御三家の吉通公を迎えればよい」と説得したという。
    また一説に家宣が、「家継の成長が見込めなかった場合は、吉通の子・徳川五郎太か徳川吉宗の嫡男・長福丸(徳川家重)を養子として、吉通か吉宗に後見させよ」と遺言したとされる。
    こうして家宣没後の正徳3年(1713年)4月2日、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けて第7代将軍に就任した。
     
    側近政治
    家継は間部詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の治を続行した。
    この間、幕政は幼少の家継に代わって生母・月光院や側用人の間部詮房、顧問格であった新井白石らが主導している。
    真偽はともかくとして、若く美しい未亡人であった月光院と独身の詮房の間にはスキャンダルが絶えず、正徳4年(1714年)には大奥を舞台とした絵島生島事件が起こるなどした。
    家継自身は白石より帝王学の教育を受け、白石も利発で聞き訳が良いとして、その人格を認めていたという。
    しかし幕政においては白石・詮房共に他の老中たちに押されぎみだったので、十分な成果は上がらなかったとされる。
    正徳6年(1716年)3月、病の床に臥し、4月30日に死去した。
    死因は風邪が悪化したためとされる。
    享年8。
    家継の死により、第2代将軍・徳川秀忠の系統は断絶し、第8代将軍には紀州徳川家より徳川吉宗が迎えられた。
    吉宗ははとこ大おじにあたる。

    不倫
    人物・逸話
    「生来聡明にして、父家宣に似て仁慈の心あり。立居振舞いも閑雅なり」とある(徳川実紀)。
    家継は、側用人の詮房から「上様、何事もこの詮房にお任せ下さい」という言葉を受け、詮房や白石の路線をそのままに政治を行った。
    家継の埋葬された増上寺で徳川将軍家の墓地が改装された際に、これに立ち会い、被葬者の遺骨の調査を行った、鈴木尚の著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』によれば、家継の棺を開けた時、長年の雨水が棺の中に入り込み、家継の遺骨は存在せず、ただ家継のものと思われる遺髪と爪、及び刀等の遺品があったのみであったという。
    また、家継の血液型は母・月光院と同様にA型であった。
    父家宣の死去により、わずか四歳で将軍に就いた家継にとって、側用人の間部詮房は父のような存在であったという。
    詮房が所用で出かけて、戻って来たときには「越前(詮房)を迎えに出よう」といって外で待っており、帰ってくると喜び、詮房へ抱きついたという。
    また、逆に他の家臣が遠慮して言えないことであっても、詮房からはきつく叱られた。
    詮房から厳しい教育を受けていたとされており、家継がわがままを言ったりぐずったりした際に、近くの者が「越前殿(詮房)が参られます」と言うと、すぐおとなしくなったという。
    日光の輪王寺宮が江戸城を訪れた際、深々と頭を下げる彼に対して、子供ながら家継は軽く会釈して見送った。
    その姿はとても自然で大人顔負けであったという。
    後年テレビ番組『世界一受けたい授業』では「7歳で婚約し、8歳で亡くなった徳川将軍」として取り上げられた。
     
    官歴
    ※日付=旧暦
    正徳2年(1712年)12月28日、正二位、権大納言に叙任。
    正徳3年(1713年)
    3月26日、元服し、家継と名乗る。
    4月2日、内大臣に転任し、右近衛大将を兼任。
    併せて征夷大将軍・源氏長者宣下。
    正徳6年(1716年)
    4月30日、薨去。
    5月12日、贈正一位、太政大臣。
    こんど不倫旅行を計画してみたい。 不倫旅行ならどこに行くのがいいのだろうか。

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